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文豪の渓流釣り(懐古)エッセイ
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釣り師の心境

坂口安吾

(途中引用文ここから) 一般に鮎釣りというものは、漁場の権利みたいな料金を支払うのが普通である。ところが、早川だけはタダである。そうだろう。メダカじゃないか。けれども、三好達治は、自分一人では満足できず、私にも釣具一式を与えて、ぜひともやってみろという。
「君は流し釣りでタクサンだ。素人だからね。僕ぐらいになると、ドブ釣りをやる」
 魚釣りはきまって天狗になるものらしい。三好達治はドブ釣りをやるんだと云って、ドブ釣り自体が名人の特技のようなことを言って力んでいたが、実際はてんで釣れなかったのである。鮎が小さいからダメなんだ、と、今度は魚のせいにした。
 けれども、早川のドブ釣りは、風景的に雄大であった。すぐ、うしろが、太平洋なのである。早川が海へそゝぐところに澱んだ溜りがえぐられて、曲折して海へ流れている。この澱みが、早川でたった一ヶ所ドブ釣りのできる場所で、ここで糸をたれていると、背中へ太平洋のシブキがかかるのである。砂浜で、海に背をむけて鮎を釣ることになるのである。この風景だけは雄大きわまるものであったが、釣れる鮎はメダカにすぎないのであった。
 詩人の熱狂ぶりにつりこまれて、私もひとつ釣ってみようという気持になった。私がそういう気持になった最大の原因は、鮎はカバリというものを用いて、一々エサをつける必要がないという不精なところが何よりピッタリしたからであった。それに鮎は、手でつかんでも、手が臭くならないことが私を安心させもした。
 私は朝の四時にはすでに流れに立っていた。私の家から流れまで三十秒、土堤を登って降りるだけの時間ですむのである。
 私は三十分ぐらいの時間に三十匹程メダカを釣った。五本のカバリがついていたが、時には同時に三匹つれたこともあった。つれた時、糸をあげる手応えは、メダカでも、ちょッと悪くないものだ。それが気に入って、三日間つゞけたが、だんだん釣れなくなったので、やめた。たくさん泳いでいる鮎の姿は目に見えるが、利巧になるせいか、かからなくなってしまう。それに、ちょッと明るくなると、流し釣はもうダメである。薄明とカバリの色や形とに微妙な関係があるらしく、私の五ツのカバリのうちで、かかってくるのは、いつも同じハリであった。なるほど釣り師が微妙な心境になったり、むつかしいことを言いたがる心境になるのも当然かも知れない。とにかく、エサをつける手間がかゝらないという点だけで、私は今でも、鮎つりだけはやってもよい気持が残っているのである。
 小林秀雄、島木健作は馬鹿正直にやってきて、メダカをくって酒をのんでいた。
「ウム、鮎の香がする」
 といって、ともかく、満足しているのは三好達治だけであった。かすかに鮎とおぼしき味覚の手応えがあるが、概ね頭と骨とそれをつゝむ若干の魚肉の無にちかい量を感じるだけであった。
 それでも、昼すぎる頃に、三好の門弟が酒匂川で釣った鮎を持ってきた。釣り場の料金を払うだけあって、四五寸はあり、二百匹釣っていた。二百匹ともなればメダカでも大したものだが、早川の方は我々合計して五十匹ぐらいの悲しい収獲であった。タダだから、仕方がない。(引用文ここまで)


全文を読む場合は 青空文庫図書カード43165をご覧ください。

文豪の釣り文学 INDEX

  • 令嬢アユ 太宰治

  • 釣り師の心境 坂口安吾

  • 雪代山女魚 佐藤垢石

  • 釣好隠居の懺悔 石井研堂

  • 松平維秋の仕事から 風の旅の記録 -山女魚を追って- 松平維秋

  • 岩魚―哀しきわがエレナにささぐ―  萩原朔太郎

  • 夜の隅田川 幸田露伴

  • 健康を釣る  正木不如丘

  • 水垢を凝視す  佐藤垢石

  • 蘆声  幸田露伴

  • 夏と魚  佐藤惣之助

  • 釣   アルテンベルヒ Peter Altenberg  森鴎外訳

  • 岩魚の怪   田中貢太郎

  • 小休止  開高健の釣文学(著作権の関係で書物の紹介) 


令嬢アユ

太宰治

(途中引用文ここから)  かれが伊豆に出かけて行ったのは、五月三十一日の夜で、その夜は宿でビイルを一本飲んで寝て、翌朝は宿のひとに早く起してもらって、釣竿をかついで悠然と宿を出た。多少、ねむそうな顔をしているが、それでもどこかに、ひとかどの風騒の士の構えを示して、夏草を踏みわけ河原へ向った。草の露が冷たくて、いい気持。土堤にのぼる。松葉牡丹が咲いている。姫百合が咲いている。ふと前方を見ると、緑いろの寝巻を着た令嬢が、白い長い両脚を膝よりも、もっと上まであらわして、素足で青草を踏んで歩いている。清潔な、ああ、綺麗。十メエトルと離れていない。
「やあ!」佐野君は、無邪気である。思わず歓声を挙げて、しかもその透きとおるような柔い脚を確実に指さしてしまった。令嬢は、そんなにも驚かぬ。少し笑いながら裾をおろした。これは日課の、朝の散歩なのかも知れない。佐野君は、自分の、指さした右手の処置に、少し困った。初対面の令嬢の脚を、指さしたり等して、失礼であった、と後悔した。「だめですよ、そんな、――」と意味のはっきりしない言葉を、非難の口調で呟いて、颯っと令嬢の傍をすり抜けて、後を振り向かず、いそいで歩いた。躓ずいた。こんどは、ゆっくり歩いた。
 河原へ降りた。幹が一抱え以上もある柳の樹蔭に腰をおろして、釣糸を垂れた。釣れる場所か、釣れない場所か、それは問題じゃない。他の釣師が一人もいなくて、静かな場所ならそれでいいのだ。釣の妙趣は、魚を多量に釣り上げる事にあるのでは無くて、釣糸を垂れながら静かに四季の風物を眺め楽しむ事にあるのだ、と露伴先生も教えているそうであるが、佐野君も、それは全くそれに違いないと思っている。もともと佐野君は、文人としての魂魄を練るために、釣をはじめたのだから、釣れる釣れないは、いよいよ問題でないのだ。静かに釣糸を垂れ、もっぱら四季の風物を眺め楽しんでいるのである。水は、囁きながら流れている。鮎が、すっと泳ぎ寄って蚊針をつつき、ひらと身をひるがえして逃れ去る。素早いものだ、と佐野君は感心する。対岸には、紫陽花が咲いている。竹藪の中で、赤く咲いているのは夾竹桃らしい。眠くなって来た。
「釣れますか?」女の声である。
 もの憂げに振り向くと、先刻の令嬢が、白い簡単服を着て立っている。肩には釣竿をかついでいる。
「いや、釣れるものではありません。」へんな言いかたである。
「そうですか。」令嬢は笑った。二十歳にはなるまい。歯が綺麗だ。眼が綺麗だ。喉は、白くふっくらして溶けるようで、可愛い。みんな綺麗だ。釣竿を肩から、おろして、「きょうは解禁の日ですから、子供にでも、わけなく釣れるのですけど。」
「釣れなくたっていいんです。」佐野君は、釣竿を河原の青草の上にそっと置いて、煙草をふかした。佐野君は、好色の青年ではない。迂濶なほうである。もう、その令嬢を問題にしていないという澄ました顔で、悠然と煙草のけむりを吐いて、そうして四季の風物を眺めている。
「ちょっと、拝見させて。」令嬢は、佐野君の釣竿を手に取り、糸を引き寄せて針をひとめ見て、「これじゃ、だめよ。鮠の蚊針じゃないの。」
 佐野君は、恥をかかされたと思った。ごろりと仰向に河原に寝ころんだ。「同じ事ですよ。その針でも、一二匹釣れました。」嘘を言った。
「あたしの針を一つあげましょう。」令嬢は胸のポケットから小さい紙包をつまみ出して、佐野君の傍にしゃがみ、蚊針の仕掛けに取りかかった。佐野君は寝ころび、雲を眺めている。
「この蚊針はね、」と令嬢は、金色の小さい蚊針を佐野君の釣糸に結びつけてやりながら呟く。 「この蚊針はね、おそめという名前です。いい蚊針には、いちいち名前があるのよ。これは、おそめ。可愛い名でしょう?」 (引用文ここまで)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード311をご覧ください。

雪代山女魚

佐藤垢石

(引用文ここから) 奥山の仙水に、山女魚を釣るほんとうの季節がきた。
 早春、崖の南側の陽に、蕗の薹が立つ頃になると、渓間の佳饌山女魚は、俄かに食趣をそそるのである。その濃淡な味感を想うとき、嗜欲の情そぞろに起こって、 我が肉虜おのずから肥ゆるを覚えるのである。けれど、この清冷肌に徹する流水に泳ぐ山女魚の鮮脂を賞喫する道楽は、深渓を探る釣り人にばかり恵まれた奢りであろう。水際の猫楊の花が鵞毛のように水上を飛ぶ風景と、 端麗神姫に似た山女魚の姿を眼に描けば、耽味の奢り舌に蘇りきたるを禁じ得ないのである。
 青銀色の、鱗の底から光る薄墨ぼかしの紫は、瓔珞の面に浮く艶やかに受ける印象と同じだ。魚体の両側に正しく並んだ十三個ずつの小判型した濃紺の斑点は、渓流の美姫への贈物として、水の精から頂戴した心尽くしの麗装に違いない。しかも藍色の背肌に、朱玉をちりばめしにも似て点在する小さく丸い紅のまだらは、ひとしお山女魚の姿容を飾っている。 黒く大きい、くるくるとした眼、滑らかに丸い頭、あらゆる淡水魚のうち、山女魚ほどの身だしなみは、他に類を求め得られまいと思う。
 渓のなぎさに、葦の芽がすくすくと伸びた早春の頃は、数多く山女魚が釣れる。山の釣り人はこれを雪代ゆきしろ山女魚といっている。また、肉充ち脂乗って、味覚に溶け込む風趣を持ってくるのは、初夏から、渓水の涼風肌を慰める土用頃である。これを至味の変と言う。
 近年、都会人に渓流魚釣りの技が普及して、三月の声を聞くともう、魚籠を腰にして東京に近い渓谷へ我れも我れもと分け入り、重たいほど釣り溜めて帰ってくる。そして、渓流魚釣りは世間で言うほどむずかしいものではない、と語るが渓流魚釣りの真髄を味わい得るのは、山女魚の活動が敏捷になった初夏の候、谷の流れが澄明、底石の姿がはっきりとなる、朝と夕べのまずめであろう。
 くさむらから香りの高い山百合が覗く崖の下に立って、羽虫に似た毛鈎を繰り、上下の対岸から手前の方下流へ、チョンチョンチョン、水面を叩きながら引き寄せるうち、ガバと水をわって躍り出す山女魚の姿を見るのは、晩春の夕陽が山頂の西の雲を緋に染めた一刻である。ひらひらと水鳥の白羽を道糸の目印につけて、鈎を流水の中層に流す餌にも山女魚の餌につく振舞に、何とも言えぬ興趣を感ずる。毛鈎の叩き釣りの豪快には比すべくもない。
 引く、引く。鈎をくわえて水の中層を下流に向かって逸走の動作に帰れば、竿の穂先は折れんばかりに撓む。抜きあげて、掌に握った時の山女魚の肌の感触。これは釣りする人でなければ語り得まい。渓流魚釣りの魅力に陶酔する所以である。(引用文ここまで)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード46652をご覧ください。

釣好隠居の懺悔

石井研堂

(引用文ここから) 小村井に入りし時、兼て見知れる老人の、これも竿の袋を肩にし、疲れし脚曳きて帰るに、追ひ及びぬ。この老人は、本所横網に棲む、ある売薬店の隠居なるが、曾て二三の釣師の、此老人の釣狂を噂するを聴きたることありし。
 甲者は言へり。『彼の老人は、横網にて、釣好きの隠居とさへ言へば、巡査まで承知にて、年中殆んど釣にて暮らし、毎月三十五日づゝ、竿を担ぎ出づ』といふ『五日といふ端数は』と難ずれば、『それは、夜釣を足したる勘定なり』と言ひき。
 又乙者は言へり。『彼の老人の家に蓄ふる竿の数は四百四本、薬味箪笥の抽斗数に同じく、天糸てぐすは、人参を仕入るゝ序に、広東よりの直輸入、庭に薬研状やげんなりの泉水ありて、釣りたるは皆之に放ち置く。若し来客あれば、一々この魚を指し示して、そを釣り挙げし来歴を述べ立つるにぞ、客にして慢性欠伸症に罹らざるは稀なり。』と言ふ。
 兎も角、釣道の一名家に相違無ければ、道連れになりしを、一身の誉れと心得、四方山の話しゝて、緩かに歩を境橋の方に移したりしに、老人は、いと歎息しながら一条の物語りを続けたり。(引用文ここまで)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード46574をご覧ください。

 

小休止 開高健の釣文学

著作権の関係で書物の紹介のみ


フィッシュ・オン
マスがたくさんいる川にミミズを持っていくのはまるで幼児虐殺にでかけるようなもの
魚を釣る前にミミズを釣らなければならない時代だけれど、 きっと古い個性はいまでも谷や磯にあるにちがいない。
開高健 
足で考え、耳で書く!
雨の日には釣竿を磨きながら
  完訳 釣魚大全 (角川選書)
アイザック ウォルトンによる全世界の釣り人から釣りの聖書と讃えられる名著
オーパ、オーパ!アラスカ篇カリフォルニア・カナダ篇
そして競争を始めるんだが、誰しもおなじ穴場へやってくるから、邪魔を追い払うのが大変だ。 そこで相手がプロかアマか判断して、プロには率直に穴場を教えあう、アマにはいい加減な情報を教える。 これがルールだよ。
  オーパ、オーパ!!モンゴル・中国篇スリランカ篇
モンゴルの人たちは釣りをしないらしい。魚を食べることすら稀だという。たぶんチベット仏教の影響だと思うのだが、どうしてなのだろうか。ともかく、おかげで魚はたくさんいるし、すれてもいない。
オーパオーパ!!アラスカ至上篇 コスタリカ篇 アラスカの河岸に世界中の釣師が巨大なキングサーモンを狙ってひしめく。小説家はバック・ペインをおして氷寒の生と死の円環の中に、輝く虚無となって立つ   長靴を履いた開高健
旅の同伴者数十名の証言で綴る開高健という男のヒューマン・ドキュメンタリー。
開口閉口
短編集の中に沢山の釣りの神髄が詰まっている。
いつかはそこを通過するかもしれないのだし、 じつはまったくそのとおりなのだから、コケの一点張りも、理に合っているのである。 釣りは、運、勘、根である。つまり人生だな。
開高健とオーパ!を歩く 
33年後のアマゾン。同行編集者(菊池治男)が見た作家の横顔。
オーパ!
あるときひまつぶしにスルビンでも釣るかということになり、生きたアラクーの口に鈎をかけ、大きな錘をつけて遠くへどぶンと投げ込んだ。
  直筆原稿版 オーパ!
心躍るアマゾン釣魚記録
河は眠らない
風倒木がたおれっぱなしになっていると、そこに苔が生える、微生物が繁殖する、 バクテリアが繁殖する土を豊かにする、小虫がやってくる。
本 堪え性のない男には務まらない。といって合わせは一瞬。せっかちでないと務まらない。この二つの要素がいっしょになった人が釣師になれる。
   

松平維秋の仕事から

  風の旅の記録 -山女魚を追って-

松平維秋

(途中引用文ここから) 当時の経験から、人と溪魚が共存する山里では、人もまた“陸封型”である、と氏は説く。 「農耕以前の人間には、野地よりも山地の方が住み易かった。人間は野から山へ入ったのではなく、山から野へ降りてきたのだと思います」
はるか後年、木地師や平家の落人が山に籠るが、彼らは開拓者として入植したのではなく、時世に容れられなかったのだ。以来、土俗信仰によって外界から隔たったその暮しは、氷河期の後退に連れて海を忘れていった魚達に似ている。そして近年。
「ダムができ、離村、廃村が沢山でました。岩魚も山女魚も、都会からの侵略者に収奪されて、山村の人間とともに減りに減ったと思いますね」
「溪流魚は、その土地に代々定住してそこを守ってきた里人の手によって、細々と釣られてこそふさわしい」
という素石氏には、四〇年の釣歴を経てなお、土着の人への“申し訳なさ”がいまも宿る。
撮影場所は、丹波山地の分水嶺を越え、舞鶴に注ぐ由良川の源流部。この釣はあくまで上流へ溯る釣である。ときには滝を越え、岩の廊下を蟹のように進むこともあるが、この沢ではその心配はなさそうだ。河原には葦の背が高く、ともすると雑木が川面の庇となり、むしろ仕掛をそれらに取られぬ注意が要る。
仕掛はテンカラ。羽虫を模して毛鉤を打っては返すいわば日本のフライ釣だが、仕掛は竿で扱える長さ、決してリールは用いない。先生の竿は、さぞかし由緒ある竹竿かと思いきや、ぼく達が使うのと変らぬグラス・ロッドの振り出し竿で、握りにはテープを巻くなど補修の跡さえ見える。(引用ここまで)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード540をご覧ください。

岩魚

――哀しきわがエレナにささぐ――   萩原朔太郎

(引用全文)
瀬川ながれを早み、
しんしんと魚らくだる、
ああ岩魚いはなぞはしる、
谷あひふかに、秋の風光り、
紫苑はなしぼみ、
木末こずゑにうれひをかく、
えれなよ、
信仰は空に影さす、
かならずみよ、おんみが靜けき額にあり、
よしやここは遠くとも、
わが巡禮は鈴ならしつつ君にいたらむ、
いまうれひは瀧をとどめず、
かなしみ山路をくだり、
せちにせちにおんみをしたひ、
ひさしく手を岩魚いはなのうへにおく。 (引用おわり)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード53596 をご覧ください。

 

夜の隅田川

幸田露伴

(途中引用文ここから) 縄の他に※(「竹かんむり/奴」、第4水準2-83-37)を以って魚を捕ってるものもある。縄というのは長い縄へ短い糸の著いたはりが著いたもので、此鉤というのは「ヒョットコ鉤」といって、絵に書いたヒョットコの口のようにオツに曲って居る鉤です。此鉤に種々のえさを付けて置くので、其餌には蚯蚓や沙蚕ごかいも用いる、芋なども用いるが、其他に「ゴソッカイ」だの「エージンボー」だのという、おかにばかり居る人は名も知らないようなものがある。
 それから又釣をして居る人もある。季節にもよるが、鰻を釣るので「珠数子釣じゅずごづり」というをやらかして居る。これは娯楽にやる人もあり、営業にやる人もある。珠数子釣りは鉤は無くて、餌をわがねて輪を作る、それを鰻が呑み込んだのを※(「てへん+黨」、第3水準1-85-7)たまで掬って捕るという仕方なのだ。面白くないということはないが、さりながら娯楽の目的には、ちと叶わないようなものである。同理別法で櫂釣かいづりというのを仕て居る人もある、此の方が多く獲れる。鉤を用いて鰻の夜釣をして居る人もある。時節によって鱸を釣ろうというので、夕方から船宿で船を借りて、夜釣をして居る人がある。その方法は全く娯楽の目的で、従って無論多く捕れるという訳にはゆかぬ。
 大きな四ッ手網を枝川の口々へかけているものも可なり有る。これには商売人の方が九分であろう。雨の後などは随分やっているものだ。また春の未明には白魚すくいをやるものがある。これには商売人も素人もある。(引用ここまで) 

全文を読む場合は 青空文庫図書カード1447 をご覧ください。

健康を釣る

正木不如丘

(途中引用ここから) 然しさう云ふ簡単な説明では、釣人諸兄の満足感は浅いであらう。もう一歩掘り下げて科学的の分析を試みやう。
 釣人は恰好の釣場へ来た。はや釣りの寄せ餌を投げ込んで、先づ一服する。心の眼に今の寄せ餌に集つて来る愛すべき彼女等を視る。程こそよけれと竿を振る。はりは思ふ壺に落ちて、続いて浮子うきが立つ。浮子はゆるやかに流れる、浮子の下の糸の先の軽いかみつぶし、その先の鉤の餌も、釣人の心眼に見えて居る。鉤から道糸、道糸から竿先、竿先から竿を伝つて手迄、全く統一した有機体である。その統一体の肝どころが浮子である。釣人の心も眼も浮子に集中されて居る。浮子の流れに一致して糸を張つたまゝ竿が動いて居る。竿は釣人が意識して動かして居るのではない、流れる浮子が竿を流して居るのである。天衣無縫、釣人は全く自然に溶け込んで居るのである。何の邪念もない、釣らうと云ふ欲望など全く姿をかくしてしまつて居る。
 釣人は無念無想である。唯めざめて居るのは、浮子の動きを今か/\と待つて居る精神だけである。
 肉体でめざめて居るのは竿を流すために必要な腕の筋肉だけで、他の筋肉特に歩行に関係ある筋肉は大休止に陥つて居る。
 精神もめざめて居るのは、浮子の動きを見落すまいとして居る神経細胞だけであつて、この一群の神経領域は異常な興奮状態であるが、その他の領域は大休止の熟睡状態である。
 大休止中には物質代謝は極度に制限されて、今迄蓄積されて居た疲労素は運び去られて行く。こうやうに肉体的と精神的の統一された、且部分的の大活動大興奮と、他の大部分の徹底的の大休止の状態を、三昧さんまい境と云ふのである。(引用ここまで)  

全文を読む場合は 青空文庫図書カード54828 をご覧ください。

水垢を凝視す

佐藤垢石

(引用ここから) 友釣は、鮎の歯跡を見て釣れといふ言葉がある。だが、いつなめた歯跡であるかといふことが分らないでは、釣りにならない。鮎が幾十里といふ道程を、溯上しながら水垢をなめた跡を「上りなめ」又は「はたなめ」といつてゐる。これは、汀の石に小さな笹の葉のやうななめ跡が、縦横に錯綜してゐるから直ぐ分る。いかにも通りすがりに、急がしさうになめた歯跡である。
 しかもこれは、鮎が好んで岸近いところを溯上する習性を物語るもので、「はたなめ」の呼称が生れた所以である。「はたなめ」を「居付なめ」と間違つたら鮎は釣れない。
 この川に鮎がゐるか、ゐないかを確かめるにはなめ跡を見るに限る。ところが汀に近いところに、なめ跡があるからこれはたしかに鮎がゐると思ひ込んで、釣つたところで掛るものではない。鮎は、そのなめ跡の附近にはゐない。遠く上流へ溯上してゐる。水垢を見ることに研究のつまない人は、 「はたなめ」を「居付なめ」と誤認するものであるから、そこはよく注意せねばならないことだ。 そして、溯上の道中にある鮎は、たとへ水垢についてゐても、居付鮎のやうに活溌には争闘をしないものである。忙しく次から次へと溯上してしまふ。 (引用ここまで)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード46565 をご覧ください。

 

蘆声

幸田露伴

(途中引用ここから)わんどとは水の彎曲した半円形をいうのだ。が、かえってそれは少年に慰めにはならずに決定的に失望を与えたことになったのを気づいた途端に、予の竿先は強く動いた。 自分はもう少年には構っていられなくなった。竿を手にして、一心に魚のシメうかがった。 魚は式の如くにやがて喰総くいしめた。こっちは合せた。むこうは抵抗した。竿は月の如くになった。いと鉄線の如くになった。 水面に小波は立った。次いでまた水のあやが乱れた。しかしついに魚は狂い疲れた。 その白いひらを見せる段になってとうとうこっちへ引寄せられた。その時予のしりえにあって※(「てへん+黨」、第3水準1-85-7)たま何時か手にしていた少年は機敏にとその魚をすくった。(引用ここまで)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード1439 をご覧ください。

 

夏と魚

佐藤惣之助

(途中引用ここから) イワナ、ヤマメならば土地の人が古くからやつてゐる。アルプスの案内者などにはイワナの名人がゐる。イワナはもう鮎も登らないやうな渓谷にゐる。流れにヤマメがゐるとすると、イワナは流れの上の滝か、山と山のほらあなの水にゐる。そして竿と糸と鈎さへあれば、土蜘蛛でも、いなごでも、蝶々でも何でも挿してやればとびつく。引きの荒いこと山の精と云ひたいくらゐである。こいつは時に蛇でも飛びつくが、そのあぶらのあること、歯の強いこと、キヤンプで火を焚いて、バタか醤油で焼いて食べたら、幽谷の珍味である。ヤマメはこの頃つとに盛んになり、釣人仲間でも鮎に飽きた人が、人の知らない渓谷を探検的に出掛けるやうになつたが、実に美しい魚だ。マスと同じやうで、斑点があつて、海魚の形をしてゐるから、釣つて美しい。もっとも山へゆくと鮎のほかに、ハエカジカなども釣れるが、第一がヤマメ、第二がイワナであらう。
 この釣りはもつと盛んになり、ヤマメもイワナももつと流行魚になるであらうと思ふ。 一方黒部や奥利根の渓谷がだんだん研究されてゆく今日、この山の娘も人気が出ない訳はない。 山の宿で地酒を汲む時も、キヤンプで夕飯にかかる時も、この魚は是非必要なものになつてくる。 それには乱獲もいけないが、学生や登山者の一部の者が、余技的にやる釣りとしては持つて来いである。 そんな意味から私はいつもさう思ふ。大利根なら大利根、多摩川なら多摩川を、 人はどうして川上から川口まで地理的にも研究しないのであらうかと。こいつはきつと愉快だらうと思ふ。 釣人の方から云はすと、一つの川の、そもそもの始まりの細流から海に出るまで、 上はイワナ、ヤマメ、鮎、マス、鯉、鮒、イナ、ウグイ、マルタ、ハゼ、鰻、鯰、と下つて来て、 一本の流れを凡て釣竿一本で研究したら面白からうと思ふ。是非これはやつて見たいものである。(引用ここまで)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード46570 をご覧ください。

 

アルテンベルヒ Peter Altenberg 森鴎外訳

(途中引用ここから) 小娘は釣っている。大いなる、動かすべからざる真面目の態度を以て釣っている。 直き傍に腰を掛けている貴夫人がこう云った。
「ジュ ヌ ペルメットレエ ジャメエ ク マ フィイユ サドンナアタ ユヌ オキュパシヨン シイ クリュエル」
“Je ne permettrais jamais, que ma fille s'adonn?t? une occupation si cruelle.”
「宅の娘なんぞは、どんなことがあっても、あんな無慈悲なことをさせようとは思いません」と云ったのである。
 小娘はまた魚を鉤から脱して、地に投げる。今度は貴夫人の傍へ投げる。
 魚は死ぬる。
 ぴんと跳ね上がって、ばたりと落ちて死ぬる。
 単純な、平穏な死である。踊ることをも忘れて、ついと行ってしまうのである。
「おやまあ」と貴夫人が云った。
 それでも褐色を帯びた、ブロンドな髪の、残酷な小娘の顔には深い美と未来の霊とがある。
 慈悲深い貴夫人の顔は、それとは違って、風雨に晒された跡のように荒れていて、色が蒼い。
 貴夫人はもう誰にも光と温とを授けることは出来ないだろう。
 それで魚に同情を寄せるのである。
 なんであの魚はまだ生を有していながら、死なねばならないのだろう。
 それなのにぴんと跳ね上がって、ばたりと落ちて死ぬるのである。単純な、平穏な死である。(引用ここまで)

 全文を読む場合は 青空文庫図書カード50913 をご覧ください。

岩魚の怪

田中貢太郎

(途中引用ここから) 「でっかい山女がいるぞ」と、一人が云うと一人は団子を呑み込みながら云った。
「ここには、岩魚が多いよ」
 白い法衣を着た僧が傍へ来て立っていた。団子を撮んで口に入れようとした一人が眼をつけた。
「お坊さんじゃ」
 他の者もその声に気が注いて僧の方を見た。僧の方へ背を向けて坐っていた者は、体をねじ向けて俯向くようにした。
 僧は菅笠すげがさを著て竹杖をついていた。緑樹の色が薄すらとその白衣を染めて見せた。
「お前さん達は、ここへ何しに来ていなさる」と、僧は優しいおっとりとした声で云った。
「毒流しに来ている処じゃ」と、はじめに僧を見つけた年少に見える壮い男が云った。
「毒流し……魚を捕る毒流しかの」
「そうじゃ」
「それは殺生じゃ、釣る魚なら、餌のために心迷いのしたものじゃから、まあまあ好いとして、毒流しは、罪咎つみとがのないものまで、いっしょに根だやしにすることになるから、それは好くないことじゃ」
 何人たれも返事をする者がなかった。そして、仲間同志であちこち顔を見合わしあった。
(引用ここまで)

全文を読む場合は 青空文庫図書カード45572 をご覧ください。


 

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