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メンバーの熱い想いレポート特集
(珠洲清流愛護会)
文中に使った写真やカットは割愛もしくは新調しました。
寄稿者名はイニシャル等に変更しました。
文中にもイニシャル等に変更した処があります。
発行年順に掲載しました。
やまめ放流に寄せる会員や関係者の熱い思いをご覧下さい。
本ページの無断転載等はご遠慮下さい
25周年レポート集発刊へ
会 長 KYK
25周年を迎えました。昭和50年4月に5〜6名の有志が相寄りまして、年ごとに減少する渓流魚、ヤマメの放流が始められました。そして、現在40名の会員が当会の主旨に賛同し放流を続けております。
その間、やむなく当会を離れられた方を含めて数えますと会員は50名を越えるのではないかと思います。長い道程をよくぞここまでやって来たものだと、今さらながら感慨深いものがあります。
今回25周年誌を発刊するにあたり、当会のいわゆる清流に係る活動およびヤマメ放流事業を中心に沿革史としてまとめて掲載しました。また会員各位より寄せられました文章、
及びけじめ、けじめに戴きました関係機関の貴重な文章を掲載しました。会誌については発足から10年後の昭和60年より毎年発刊しましたが、
昭和64年(平成元年)までは規約と名簿のみの会誌であり、平成2年より会員の文章が載るようになりました。従ってそれ以降現在までのものを集大成したものとなりました。
あらためてまとめて見ますとその時々が思い出され胸に迫るものがあります。これを機会に、当会にかかわり、かかわられた全ての皆様に感謝の意を表したいと存じます。
やまめの放流と子供たち
NGM(平成2年)
近頃の子供達は外で遊ばなくなったと言われる。そういえば『小鳥採り』は条例で禁止されてできないし、野うさぎを針金の罠でとらえることを知っている子供もほとんどいなくなった。
わずかに海や川で魚つりをする子供達がいるにはいるが、随分数が減ったように思う。魚つりをする子供達が少なくなった原因はいろいろあるだろうが、一番の原因は魚が釣れなくなったからだと思う。
糸を垂れても何もつれてこない魚釣り程つまらないものはない。せめて釣れなくても、釣れるかもわからないという期待があれば別だが……。
海や川の生物が昔に比べてすごく減ったと思う。子供達からあの魚釣りの感動をとりあげてしまってはいけないと思う。ファミコンの画面にひたすら向き合って、
ボタンを懸命に押している子供達に岩影にひそむおおきなヤマメをつりあげるときの感激を体験させてやりたい。単に魚を釣るという喜びだけでなしに、そのことを通して、多くのことを子供達は学ぶはずだ。情操豊かな人間として成長していくために、生き物や自然としっかりと対峙する経験を数多く持たせるべきである。
現在勤務しているH中学校の校下には、鵜飼川というすばらしい川がある。ダム建設や護岸工事で川の生物が住みにくくなったようだが、それでも美しい水が豊富に流れている。それに、何年もヤマメの放流事業が行われていて子供達でも少しは釣ることができる。昨年、鵜飼川の上流へ数人の子供達と一緒にヤマメ釣りに出かけた。
さいわい何匹づつか釣れて、学校の中の生活では味わうことのできない貴重な体験をし、その子供達と深いつながりを持つことができた。
学校では、ぼんやりしていることの多い子のあの生きいきとした目の輝きを今も忘れることができない。川の自然を美しく保って、さらに魚のいる川を守っていくことは、
未来に生きる子供達の心を育てることにつながっていくと思う。
川流れて人つなぐ
IZS(平成2年)
ひと昔 “青木淵”にと言えば、雪解水にのって来た女王(=山女)が闊歩悠泳していた。盛夏になれば赤熊・青ライオンなどに香魚が跳ね、夏の涼を満喫することができた。緑影を映す菅沢支流では尺ものを追っ掛け滝壺を上がった。
ふた昔 蝉が産声を弾き出す頃、冬の毛布、布団敷、着物などをこの流れに浸し洗いしてから、乾くまで河原の真っ白のごろ石の上で寝そべった。UK
産としては鵜飼川にはこんな生活の習慣もあったが、今はごろ石のかけらもない。
おお昔 多くの文明は河川の邊で発祥した。人は川を育み、その代り川は人にたくさん恩恵を返してきた。
ボランティアの放流事業へは、「いつまでも好きなとき女王に対面したい」という気持ちから参加した。ポケットマネーを持ち寄り、遠く山中町にある内水面水産試験場へ仲間と出掛けた。3〜5cm程の可愛い稚魚が群れ泳ぐ、氷と酸素詰めのビニール袋は宝物に見えた。そして、これを全日かけて放流することが美味な年中行事となった。
残念ながらその間、川はドンドン汚されていった。ゴミ捨て場になり、廃水や工事によって川は絶えず悲鳴をあげていた。あちこち到る所に地元の行政はコンクリートの岸壁や堰堤を造った。青木淵はヘドロのダラ淵と化し、鮮やかな流れは失われた。
四国の四万十川は、細心の注意を払って河川が守られ、日本最後の清流として宣伝されている。岐阜長良川の堤防問題も付近住民の河川への思いやりがリードしそうである(がどうか?)。開発という名に隠蔽した自然や循環系の破壊は、極まるところ人の思い上がりと早く知るべきなのだが(と女王が嘆いている)。 珠洲の街なみは川の流れに沿うような格好で縦横している。
農林業のみならず、漁業も多くの生活分野が河川の影響をもろに受ける。
然らば、女王が悠泳する清流をば造り出そうゾー。(註:ママでない)
山女魚の生態
SYT(平成2年)
ぼくのような者が、生態などという大それたことは書けませんが、一つ思っていることがあるのです。サケ・マス科のパーマーク、いわゆる幼魚斑について、固体の成長過程における日照時間によって、斑の数が左右されるということですが、各河川ごとの基本的な斑様があるのではないでしょうか。
均一化した小判型、ひょうたん型、キュウリ型、色々あると思います。人間の指紋、ホルスタインの色のように、一匹として同じ斑がないと思われます。現在は、放流事業で色々な斑様の山女魚が入りこみ、きれいな小判型が少なくなった様に思われます。
現在の河川環境では不可能ですが、放流をしないその川本来の山女魚、いや全生物が増えてほしいと思います。
つりと山野草
MDM(平成3年)
私が生まれて育った所は、鵜飼の町から10kmも山に入ったDKである。大きくなって1人で遊べるようになると、山と川が私の行く場所になった。行くところがなかったといえばそれまでだが、夏休みは毎日川に行ってよく叱られたものだ。ある朝、父が「川へ“サクラウガイ”を取りに行くぞ、自転車の後ろに乗れや」といって起した。そっと川をのぞくと、まっ赤になったウグイが川の流れに逆らって遡っている。投網をなげると魚がとび上がった。
「おもしろいだろう」と父はにっこり笑った。山があるから谷があり川がある。当然だといえばそれまでだが、人間の手が入らない自然そのものの山川を知っているから、すらっと言えるのではないだろうか。なぜ、白山の山奥に「イワナ」を求めて行くのだろうか。なぜ、ヤマメを求めて山奥に入って行くのだろうか。人々は自然を求めているのだ。自然とたたかっているのだ。永遠に。戦後、山で育ったお陰で野山で食べられる物はほとんど知っている。谷底でひっそりと咲く草花も知っている。
しかし、釣りと一緒に採集してくるのではない。あの川に行った時こんなものがあった。
ここに行くとこんなものがあるはずだと場所をおぼえてくるのだ。しかも、釣りをする時は全神経を竿先に集中しているので、まわりの物が目に入らないから、
同じ場所へ数回おとずれないとおぼえられないことをことわっておこう。昨年来て見つけたものが、今年行った時もそこにあった時のホッとした気持ちは、
ちょっと表現出来ない位ほのぼのと安らかな心が湧き上がってくる。昨年釣った場所に今年も釣れた。
このありがたさ、尊さが釣り好きにする原因のひとつと言っても過言ではないだろう。「猟をする」これは人間生活に於いて、
生れてから死ぬまで(大小はあるが)持ち続けるひとつである。そして、このことは古人も現代人も共通して言えることだ。
しかも、このことが発明につながり、発見につながるのだ。
エビでタイを釣ってもいい、ミミズでアユを釣ってもいい。いろいろ工夫しながら目標の場所に出かける、そして発見してくる。
本当にすばらしい出来事ではないだろうか。すばらしい出会いのチャンスではないだろうか。
放流に参加して
TDE(平成3年)
私は、この会に入って10年余りになります。
江沼郡山中町(県内水面水産試験場)より2〜2.5cmのヤマメの稚魚を持って来て、珠洲市・郡のいくつかの河川に放流に行くのですが、
同じ場所に2年続けて行くと土管の中より成長したヤマメが2〜3尾出たり入ったりして「おっちゃん元気に育っているよ」と姿を見せてくれると、
苦労して放流した疲れが一度に吹き飛んでしまいます。話は変わりますが、最近ヤマメの世界もなかなか住み難いようです。
その訳は、雑木林が伐採され杉や松やアテなどが植えられていますが、土石の流出が激しく今まで水深があって崖伝いにやっと渡った場所が楽に渡って行けるようになり、
大きな石が土砂に埋まり、捨てられた木々が詰まって砂防ダムのようになって川を埋めつくしています。ヤマメが「おっちゃん何とかしてよ」と訴えているようです。
そこへもってきて、車社会になり交通の便が良くなって釣り人口が増えましたが、マナーの悪さが目につきます。
ところかまわずゴミを捨て、まだ小さな5〜6cmのヤマメさえも持って帰ります。せめて魚を大切にする心だけでも忘れないでほしいと思います。
清 流
MRM(平成3年)
春、草花樹木の芽覚める頃、清流は我にヤマメを“女”覚めさせる。
2・3月、河川を見廻りて水清く豊かに流るる石裏に“ヤマメいるか”とつい眺め、なほつづく釣禁の日々。川辺に咲くフキノトウ。
4月1日、忘我、清流に入り釣禁6カ月の禁欲から解放され浮子を流し、恋しきヤマメを釣る。“ああ、今年も会えたぞ初ヤマメ”
久しき再会心踊らせ魚籠に入れる。清流水面、カゲロウの飛翔にヤマメ遊び、草花樹木の新緑を映す。
6月16日、紫陽花の咲く頃、若アユ群れをなし清流を遡り解禁の毛鉤に戯れる。
7・8月盛夏、向日葵咲く頃、黒石、清流の輝きに光り居着きのアユ、苔を喰む。
『友ゆかば、背掛りのアユ玉網に入る』
9・10月、ススキの揺れる頃、ヤマメ釣禁、アユ落ちて釣行に納竿あり。秋風の吹く清流に6カ月の感謝と別れを惜しみ、又春の芽覚めを待つ……。
清流に通いし10余年。ヤマメやアユと遊びてこれ程“楽しい” “悔しい” “今度こそは” “待ち遠しい”と思う事は無い。
そして最後に “よく釣れてくれた!!” と感謝する。釣りこそ最高ではないのでしょうか。
清流は私に “最高” を恵んでくれています。これを続けるには、清流の中に沢山の魚が住み、
子供達や多くの釣人が楽しめるような自然条件の良い環境が少しでも戻るように願う。
その為には、清流愛護会のように放流事業や河川掃除等がこの先将来長く続くように我、清流愛護会の釣行を望み、試み、自然の森の清流にヤマメの稚魚を放流したい。
キャッチ&リリースについて
HTK(平成4年)
今年から、珠洲清流愛護会に入れて頂きました。今後ともよろしくお願いします。
渓流釣りは、エサ釣りから始めて、最初ヤマメを釣りあげた時、
渓流ザオから伝わる感触が海釣りでは味わえない何とも云えない感触でした。次には、テンカラ釣りをして毛針釣りのスリル感を味わいました。
テンカラ釣りは一瞬の当たりを見逃すと釣れないからです。
その後、フライフィッシングに変わりました。
私の釣りは、スキーが終わる3月の下旬からタイイングブックを見ながら、渓流の水音やトラウト達の顔を思い浮かべながらフライボックスに入れる、
フライのタイイングからです。4月の中旬までに終って、やおらロッド・リール・ライン・リーダー・フライ・その他小物類を持って、いざ出陣となります。
ほかの釣り方をしている人には疑問に思われるでしょうが、訳があります。フライにはまず、
水面を浮くドライフライと、水中に沈むウエットフライとニンフ(幼虫)フライがあります。
又、その中で実際に存在する昆虫や小魚の姿を模倣したイミテーションフライと、実際にはないが、トラウト達が興味を示してくるファンシーフライがあります。
その河や時期に依ってフライのサイズが違ってきます。ですから、1カ月間かけて選びます。その河の経験が多くなればフライの数が要らなくなりますが、
私は経験不足で多いです。
解禁日に出掛けないのは、ストーン(カワゲラ)フライがハッチするくらいですから。4月の中旬以後から9月まで楽しみます。
私は、釣りを楽しむのに理屈はいらないし、さまざまなカタチの楽しみ方があり、それぞれ奥が深いものだと思います。
しかし、釣りのほんとうのおもしろさが、いたずらにその数や大きさを釣り誇ることではなく、釣りという行為そのもののすべてを楽しむ事にあると思います。
釣り人は勿論、すべての人が河や湖や森や魚たちを愛するようになってほしいと思います。
釣り行脚
OHY(平成4年)
私が初めて渓流釣りをしたのは、はっきりとは覚えていないけど確か小学校4・5年の頃だったと思います。
あの頃はまだ解禁が3月1日であり、雪深い山で足をとられながらのぼっていたのを覚えています。今とちがって魚影もこく、ひとつの滝つぼに20〜30匹も釣れたものです。その後、中学校、高校、大学と溪から離れていたのですが、大学卒業後、地元に帰り10年ぶりぐらいに溪に入って1日ゆっくりすごしました。水の流れ、鳥のさえづり、川風…気持ちがすーっと溶け込んでいくような気がしたのを覚えています。
それからというもの、やみつきになり、鵜飼川、大谷川、般若川、竹中川と珠洲の川という川を歩きました。どの川もそれぞれ特徴をもった溪で、やっぱり溪っていいなぁーと改めて感じたものです。毎週、毎週、溪へ行くようになり、尺ものを釣りあげたこともしばしば……。また、市内ではあきたらず、手取川支流へ足をのばしルアー・フライなどで大物をねらうこともあります。
今でも大物へのロマンは大いにもっていますが、釣れても釣れなくてもいい、ただ溪の自然へ入る喜びを最近感じるようになりました。別世界へ行ったような気分になり、日常のわずらわしい事など、全て忘れ去る一時がもてることに大いに喜びを感じます。 近年、川や海など環境汚染が話題にのぼりますが、地球の自然、かけがえのない財産を後世に伝えていく責任が私達にはあります。今後も大いに溪にかよい、溪の自然を大切にしながら、そのすばらしさを謳歌したいと思います。
私の渓流今昔
OGS(平成5年)
今思いますと、20数年前、初めて山女魚を見た時、ピンクの美しい魚体と不思議な目の縁の斑点が今でも鮮明に思い出されます。私の渓流釣りは師匠のCYさん、IMさん両先輩のすすめと渓流で味わえる四季の素晴らしさにあったと思います。造園の仕事に従事していた私には四季折々山野が変化するさまに感動することが多い釣行でした。一木一草、光、風、水、土、石、全ての自然が常に新鮮でいっぱいでした。
断崖に下がった樹々、
岩石と岩石の分割具合、早朝の杉林のこぼれ日、新緑のもみじ葉、紅葉した樹々、夕暮れのトロ場で夕日が水面に映え虫達が水面を飛びかう様子、思い出してみても渓流釣りの楽しみの半分は、人工でない長い間の自然造形美だったと思います。
4.5mのグラスの清瀬(竿名)を買い、仕掛けを作っていただき師匠達にはよく一緒に釣行してもらいました。雪が多い時、水量が少ない時、繁みの釣り方などたえず初心者の私を先行させてくれました。小魚のコンコンと云う「あたり」、底で引き回すような30cmオーバーの「あたり」など体験で学びました。危ない目にも会い、だけど時には、水色とコバルトブルー色をした小鳥、「かわせみ」に会えました。自然はまだまだ豊かでした。
もう20年前の自然は完全に消えました。一人一人が自然の大切さに目覚める時、川や湖沼の魚は死滅をまぬがれるだろう。そんな気がします。小魚が上流に向かって泳ぐ姿を見ると竿が出せない!そんな心境の今日この頃です。
ヤマメの増養殖について
石川県水産試験場SBB氏(平成5年)
ヤマメは学名、Oncorhynchus masou var.ishikawae
と呼ばれ、サクラマスの陸風型として位置づけられています。また、サケ属の中では原始的なものにあたり、その生息分布域は狭く、日本を含む極東地域に限定されています。これらのことから、サケ属の中では最も調査・研究が遅れているといわれています。ヤマメの生態は、会員の皆様が現場をよく見ておられることから詳しいことと思われますので、簡単にふれるだけとして、私が少々たずさわっていた増養殖について、日頃の思いを述べたいと思います。
淡水魚の養殖といえば、ニジマスがよく知られていますが、かつて米国から輸入されたものであり、当初は米国への輸出用として養殖されていたものです。しかし、円高、ドルショックなどの影響により国内向けの生産に切り替えられたもので、近年、都市圏内ではスーパーなどの店頭に並べられているということです。河川放流にも用いられてきましたが、
期待するほどの放流効果がえられなかったことから、現在は行われておりません。これに対し、ヤマメ、アマゴは在来マスと称して、昭和40年代に養殖が試みられたもので、馴染みが深いことや、その姿が美しいこともあり、比較的容易に受け入れられているようです。ヤマメの雌は満2年で成熟し、数十から数百粒の採卵ができます。雄は通常、雌と同じく2年で成熟しますが、満1年の小型で成熟するものがいます。
また、アマゴでは雌でも1年成熟の系統がいるそうです。
以上の点を自然河川にあてはめてみますと、体重100g未満の小型魚でも産卵し、小規模河川の成長の悪い魚でも再生産に関与できることになります。また、1年成熟することは、短気に再生産に加わり、複数世代で再生産に関与するための安全策であろうと思われます。ニジマスが子孫を維持出来なかったのは、体重が1kg以上に成長しないと再生産に関与できないことも一因であったようです。(小規模河川で大型化することは難しい)
しかし、従来の養殖が増重を第一目標としていることから、親魚の継代方法としてより成長の良いもの、より人工餌料を食べるもの等を選択し、鱗の落ちやすい銀毛魚を淘汰してきたといえます。(養殖ヤマメは銀毛率10%未満)
しかし、放流目的となりますと、より野生味の強いものが求められ、また、養殖魚でもより自然を求める気風から、姿形も天然魚類似が求められるようになってきました。そこで、養殖技術も天然魚の形質・系統の導入や発眼卵放流等の試みが始められるようになってきました。
さらに、サケ類は本能的な母川回帰により世代交代を繰り返している訳で、結果として地域毎の環境に最適な系統ができあがってきたことになります。特に、河川生活の長いサクラマス(ヤマメ)などはその傾向が強いと推定されます。そこで、今後は河川環境の保全に努めるとともに、できるだけ地元河川に生息する魚による再生産を図り、資源を維持していくことが大切であろうと考えています。
これからの子供たちのために
NGM(平成6年)
現在、学校では学校週五日制への最初の段階として、平成4年9月から、毎月第2土曜日が休業日となった。このことを機会に子供たちの休日の過ごし方が問われることとなった。いかに有意義に過ごすかを、自分で決められるよう、子供たちの自主性を一層育成していくことが学校や家庭の重要な課題となった。 また、
休みの日には、親子で楽しく過ごすことも大切である。時には、デパートで買い物ということも必要だが、
魚釣りをしたり、山菜採りに出かけたりして、親子で自然とふれあう機会を持つことも意義あることではないだろうか。
さて、昔の子供たちは、チャンバラや魚釣り、缶蹴りなどと、随分、野山や海、川で遊んでいたが、最近の子供たちは野外で遊ぶことが大変少なくなったと憂える人が多い。その原因はいろいろあり一元的な見方はできないが、例えば、魚釣りをしても、釣れないことが多ければ、やはり魚釣りにでかける子供たちはいなくなると思われる。海や川でだんだん魚が釣れなくなったのである。
子供たちが主体的に野外に出かけ、自然の中で健全に育っていくために、また、家族そろって自然と触れ合う体験をするために、子供たちが野外で楽しく、安全に過ごせる自然環境を整えていくことが非常に重要になってきたのである。
そういう意味で、河川の環境を守り、魚の放流事業などを長年続けてきた清流愛護会の活動が、今またその重要性を増してきたように思う。
山女魚の放流20周年目を迎えられて
釣愛好者連絡協議会KMM 氏(平成6年)
地元河川に生息する資源のより一層の増大をはかる目的をもって清流愛護会の結成以来長年にわたり稚魚の放流をはじめ、河川の清掃等積極的に進められ、美しい珠洲の自然を守ってこられた会員各位の奉仕活動に心から感謝を申し上げたいと存じます。近年、化学物質等による川や海の環境汚染の被害等話題が絶えない昨今ですが、幸いに珠洲市では、清流の河川が多いことから溪流釣り愛好者も年々増えていると聞いております。
森林から流れ出る豊かな水に自然の中でしか生きられない清流魚族が育っております。清流魚の跳ねる美しい川を自然の法則に逆らうことなく、自然の生態系を釣り人自らが守って行かなければならないと思うこの頃です。
後になりましたが、放流20年目を迎えられた清流愛護会の益々のご発展と会員皆様方のご健勝を心からお祈り申し上げます。
鵜飼川とサクラマス
内水面水産試験場TMK氏(平成6年)
サクラマスは不思議な魚です。春の浜の市場に並ぶ、まるまると太ったサクラマスが渓流の女王と言われるヤマメと同じ魚だと気づく人は稀でしょう。そう教わっても渓流にあの鮮やかなパーマークを踊らせるヤマメが、わずか1年の海岸生活で銀鱗輝くサクラマスに変身する姿には、やはり不思議な魚だと感じずにはいられません。
冷水性の魚であるサクラマスは北の方ほど降海する割合が高く、南の方では降海する割合は低くなり、ほとんどがヤマメとして一生を溪流で過ごします。日本海に面する本州のほぼ中央に位置する石川県では降海してサクラマスとなるものと、溪流に残りヤマメとして一生を終わるものの割合はちょうど半々だと言われています。
石川県では、昭和60年度より「降海性ます類増殖振興事業」という事業名の元にサクラマスのスモルト放流試験を開始しました。これは降海してサクラマスになるヤマメを大量に育てて河川放流し、沿岸で捕獲するサクラマスの資源を増やそうと言う試みです。ヤマメが1年半の河川生活を終え降海しようとするものは、その準備段階として鱗が発現します。このような状態を銀毛もしくはスモルトと言い、この段階での放流をスモルト放流と言います。
サクラマスの放流試験を始めるについては試験河川の選定にあたり、県内の各河川について検討され能登内浦に地域がしぼられてからは現地調査の上、鵜飼川に決まりました。私の鵜飼川との始めての出合は今から20年ほど前になります。
アユの毛針釣りを教わったばかりの私は、清流に天然遡上の若アユが群れ泳ぐあの時の鵜飼川の光景が今も鮮やかに思い出されます。それと、やはり20年近く前になりますが、鵜飼川のサクラマス調査で郷堰堤下の淵で銀鱗を光らせていたサクラマスが忘れられません。鵜飼川が試験河川に選ばれたのは、小さな川ですがサクラマスの帰ってくる川だからです。サクラマスを大きくするのは日本海ですが、日本海に送り出すのは清流です。溪流がサクラマスの故郷です。鵜飼川は溪流がそのまま日本海に注ぐ川だと思います。
ヤマメの溪流を守ることがサクラマスを増やすことにもつながります。放流しなくてもサクラマスが帰ってくる川、夢ではなく本当にそんな川を増やしたいですね。
祝二十周年
珠洲市水産林業課HST氏(平成6年)
珠洲清流愛護会発足20周年を心からお祝い申し上げます。
昭和50年5月、珠洲の河川から清流に住むヤマメが少なくなって行くことに気付かれ、自分達の手で、ヤマメ、アマゴ等を放流し、河川の愛護と清流魚族の保護育成事業に取り組まれて以来20年目の節目を迎える会員の皆様には、大変ご苦労の多かった年月であり、感激も一入のものがあろうと思います。
その間、会員の皆様の、物心両面にわたる活動が今日の実績を生み、市内の河川が遅々ではありますが、清流を取り戻しつつあるのも、会員皆様のご協力の賜物と深く感謝いたしております。市でも、これまで内水面魚族の育成のため、放流事業を実施いたしておりましたが、鵜飼川の上流でダム工事が計画施工され、また市内各河川で災害復旧工事等が行われたため放流事業を一時中止いたしておりました。
そのダム工事も完了いたしましたので、本年度から再びアユの稚魚放流事業を実施する配びとなり、琵琶湖産の稚アユ200kgを鵜飼川に放流し、その成育状況の調査を再開するするつもりです。
また、県内水面水産試験場が、沿岸漁業の重要魚種であるサクラマスの資源増大を目的として、降海性の強いスモルト化(海への適応力を身につけ体表が銀色に変わること。)したサクラマス稚魚8万尾を鵜飼川へ試験放流いたします。昭和61年より実施しておりますので9年目になりますが、沿岸漁業に着実な実績が現れております。
こうした事業が継続実施されることによって、内水面魚族の保護育成につながって行くものと考えております。今日まで、清流愛護会会員の皆様がヤマメ、アマゴ等の放流事業を続けてこられた息の長い行為もまた、そんな見地から、その貢献度は偉大であります。今、地球を取り巻く環境問題が大きくクローズアップされており、なかでも二酸化炭素の増加による地球温暖化および気象の変化は、地球に住む全てのものに、さまざまな影響を与えることが懸念されており、その警鐘が聞こえて来ます。こうしたとき故、清流愛護会の皆様方の活躍に大きな期待が寄せられるのであります。
市でも、河川に清流を取り戻すため、市民の方々のご協力を得ながら、河川愛護と環境浄化に努めてまいります。
一人ひとりの小さな試みが、地球を救い、清流を取り戻し、内水面魚族保護の原動力となることを確信し、皆様と共に珠洲市も努力してまいりたいと思っております。
この頃
TGM(平成7年)
平成6年会誌に自然災害について能登沖地震を取り上げた。これに勝る災害は考えられないと思ったからである。ところが今回、平成7年l月17日早朝、元来の最高震度を1ポイント上まわる阪神大震災である。その情況は福井大震災の被害に優る死者5,500人、広範囲な火災・被災者20万人と云う前代未聞のすさまじいものであった。
そして最近の円高傾向は80円台を記録、また3月20日早朝の地下鉄「サリン事件」それも政治、経済の中枢、東京霞ケ関で起った。3,000人を越える被害者、死者10名以上と云う無差別殺人、アメリカの銃問題も今日、日本自身の問題になりつつある。覚醒剤しかり、人間の欲望に物を破壊すると云う欲望がある。破壊、平和の繰返しが人類の歴史であった。今日ほどの破壊威力を過去に持っていたとしたら現在の発展はなかったであろう。それ故、今日の破壊行為はそれこそ壊滅的打撃を人類に及ぼすのである。良識と冷静さが、尚一層望まれる。私達の住む能登はどうか。その片鱗は見えるものの平和の部類に数えていいと思う。
平和とは自然と共存すると云う気持を如何に維持出来るかである。自然共存の一つの方法として清流愛護会はヤマメの放流と云う形でそれを実践している。
そして時過ぎてその答が返って来るであろうことを信じて疑わない。 平成6年会誌に自然災害について能登沖地震を取り上げた。これに勝る災害は考えられないと思ったからである。ところが今回、平成7年l月17日早朝、元来の最高震度を1ポイント上まわる阪神大震災である。その情況は福井大震災の被害に優る死者5,500人、広範囲な火災・被災者20万人と云う前代未聞のすさまじいものであった。
そして最近の円高傾向は80円台を記録、また3月20日早朝の地下鉄「サリン事件」それも政治、経済の中枢、東京霞ケ関で起った。3,000人を越える被害者、死者10名以上と云う無差別殺人、アメリカの銃問題も今日、日本自身の問題になりつつある。覚醒剤しかり、人間の欲望に物を破壊すると云う欲望がある。破壊、平和の繰返しが人類の歴史であった。今日ほどの破壊威力を過去に持っていたとしたら現在の発展はなかったであろう。それ故、今日の破壊行為はそれこそ壊滅的打撃を人類に及ぼすのである。良識と冷静さが、尚一層望まれる。私達の住む能登はどうか。その片鱗は見えるものの平和の部類に数えていいと思う。
平和とは自然と共存すると云う気持を如何に維持出来るかである。自然共存の一つの方法として清流愛護会はヤマメの放流と云う形でそれを実践している。
そして時過ぎてその答が返って来るであろうことを信じて疑わない。
子孫から預かっている古里
TGM(平成8年)
前年、平成7年9月〜10月の休日を利用して貴重な経験をした。珠洲、内浦の河川調査を当会で手がけたのである。以前から一度やってみようと思っていたのであるが、やっとその思いが実現したものである。河川ごとに上流部から下流まで四ケ所程、調査地点を設定、魚類生息状態、河川の状況、水質、水温、樹木の状態などを調査した。ザイル、繩梯子を使っての渓流下りで大変だったが、河川の実態を掌握できて有意義であった。
今後、当会の事業「ヤマメ放流」の的確な指針になることは間違いない。そして調査の結果は、けっして良好な河川状態では無かった。まずコンクリ−ト堰堤の多過ぎるのに驚いた。
砂防目的ではあろうが、水質、魚類、樹木に対する被害を考えるとデメリットの方が多いように思える堰堤が多々散見された。堰堤が高過ぎる為、洪水時には滝となって落ちる水によって下流部が崩壊、又その下に堰堤を造ると云う悪循環が見える。短かい間隔で堰堤が造られると、その間ごとの水の流れが無くなり水中酸素の欠乏を来し、また魚の栄養となる水性昆虫(トンボの幼虫など)が死滅、魚の生息出来ない川になってしまうのである。
また、杉、アテなどの植林及工事でブナ、ナラ、クヌギ等の落葉樹が伐られ、表土水、地下水の貯水が悪くなり一時的な洪水を呈しその後急激な川水の減少を呈する。また山の肥料になる落葉が減少し山自身痩せてきている現状である。
もう一つ、川と海の関係について、珠洲の産業としての漁業に対する影響も堰堤により現れて来ている様に思う。栄養を多く含む美しい川水と、そこに生息する川魚の上流より下流へ下流より上流への散卵移動が出来にくくなり、その為川魚を餌とする沿岸の魚が沿岸寄りしなくなって来ているようにも考えられる。川の重要性、自然環境のいかに大切かを、今一度認識しなければならない。先日「町づくり」に関する講演の中で「ふる里の文化歴史、自然、諸々について「先祖から受け継いだと云うよりも、それ以上に子孫から預かっているのであると云う気持を大切にしなければならない」 要約すればそんな内容だったと思う。心に染みる言葉である。
この頃思うこと
ABS(平成9年)
今年もl月の初っ端から大変な事が起こった。あのロシアタンカー重油流出事故だ。昨年の阪神大震災、1昨年の北海道のトンネル崩落事故。平成になってから、日本のみならず世界各地において頻発する地震やハリケーン、集中豪雨による洪水など、たび重なる異常気象とも思える現象が頻発している。これは、地球自体が傾いてしまったようで、まるで地球の真ん中にある地軸自体が傾いてしまったよう。そして、そんな中で一番の直接的な被害者は誰だろうかと考えてみる。するとそれは人間ではなく、小動物や物言わぬ植物たちなんだと思ってしまう。原因を作ったのは、やはり我々、人間がこれまでやってきた自然環境に対する自分勝手な行為の数々だ。
そんなことを考えながら、長橋海岸の重油漂着現場に着いた。早速現場まで下りて行き、自然にできあがったチームと回収作業に入った。土嚢袋にC重油が次々に積み上げられていった。初日でもあり、合羽を着て、ゴム手袋、長靴の根元にガムテープを巻き付けた重装備な出立ち、おかげで衣類が汚れることも無く慣れぬ作業とは云えなんとかこなした。
2日目には、前日の経験から、剣スコップをもって8人チームの最前列で、バケツの中の袋にどんどん詰めることが出来た。チームを組んだ中に、76歳のおばあちゃんがいて頑張っていた。まだまだ若い者にや負けられんとでも言いたげであった。1週間ほど通ったら、さすがに肉体疲労の限界で、しばらく休ませてもらった。その間に、現地ボランティア作業中の松原先生の死亡をニュースで知った。とてもショックであり悲しい出来事であった。自分の経験から言って、足場の悪い現場では同じ姿勢を強いられる為、無理のない作業時間は半日が丁度であったと思う。とにかく、今回の作業を通じてボランティアについて、様々のことを教えられた。中でも特筆すべきことは、至る所で人々の善意の行為が溢れかえっていたことである。もちろん、珠洲清流愛護会の方々も駆けつけて、めいめいが油まみれになって重油の回収に当たっておられたことも、非常にありがたいことであった。私も期することあって、最近会員に加えていただいた。すばらしい仲間達である。
ところで最近聞いた言葉に、「世の中の人々もバブルが弾けて以来、エコノミストからエコロジストに徐々に変わってきたような気がする」というのがある。それを証明するかのように、最近はこれまでのように利便性ばかり追求する、あるいは効率性ばかり追求する考え方が、ここに来て種々手詰まりの様相を呈する傾向にある。今回の経験からも、自分たちを取り巻く自然環境の悪化を目の当たりにすることで、皮肉にも気づかされることとなった。
今日の都会の生活を見ていると、水道水でさえ安心して飲めず、ミネラルウオーターをデパートやコンビニから買ってきて飲んでいる。もう、そんなにしてまで都会生活にしがみついていて良いのだろうかと思ってしまうことがある。
能登に住む我々は、四季折々の風情をふんだんに味わいながら、そして時間をたっぷり感じながら生活している幸せを、何物にも換えられない価値観として持っている。しかしながら最近、人口の過疎現象を何かの合言葉にしている評論家があちこちにおられるけれど、逆に価値観の分からない人が能登から出て行っているだけとも考えられなくもない。そう思ってしまえば、何もそれほど深刻ぶることは如何と思う。
そして、ここに残った人は何かにジタバタするのはもう止めて、田舎本来のゆとりを取り戻した生活をすればどうかと思うこの頃である。
私の思い出の川釣り
UBE(平成10年)
2月初め、清流愛護会事務局より電話があり、私の川釣りの体験記について一筆候らえとの事、渋々引き受けましたが、如何にせん、筆不精の為、誤字、脱字、乱文、にて読みにくい点は、我慢をしてもらうという事で本文に入ります。
そもそも私が川釣りを始めたのは小学校の頃でしたが、今の時代のような金がかかるような遊びはなく、自然を相手に山や川で日が暮れる迄、親が心配をして見に来るまで家に帰らないで遊んでいました。今、あの頃の面影を残している河川も少なくなり、今の子供たちは、可哀想だなあと思う反面、そんな状態にした我世代の罰ほろぼしにと、毎年ヤマメ放流の会費を納めるだけの会員となってしまった不心得もので御座居ます。
あの頃は、アユの毛針1本5円、10円の時代、竿は河原に繁っている竹、それでも器用に季節の味を楽しむのに必要な分だけ釣りが出来ました。いつしか鮒がみみず、餌が毛針のアユになり、中学、高校には中断しましたが、東京へ就職、その後Uターンをし、再び能登の自然と親しむ事になり感激でいっぱいでした。
は亡き OTWK釣具店の奥様や、川釣りの先輩の皆々様に励まされたり、教えられたり、見よう見まねのやまかんの釣りでしたが、私の釣りは、“根気と運”だけのもの。時には40センチ級のヤマメを釣り上げたものでした。今だから言える忘れもせぬ鵜飼川の支流の一つで二口という所、皆が鮎釣りをしている雨上りで、川に濁りが少し残る日だったが、餌はみみずとイクラを用意して、今のようにクーラーも持たず、川へ入り夜が明けてすぐ上流近くまで釣り上がりました。大物だけ塩の入ったビニール袋に入れ持ち帰ったあの日の感動は今もって忘れられません。愛護会にも記録があるだろうが30センチを越えるものが十数匹の釣果。また、私は川と言えば鮎の友釣りをした事もあります。今はなき飯田町の
KWRさんです。私に友釣りの感動を仕掛け作りの楽しみから釣る楽しみまで教えて下さいました。師は沼津で狩野川の主と言われる程の名人だったそうです。友釣りの鮎はいずれも大型で粒ぞろい、中でも鵜飼川のそれは珠洲の他の川には比較にならない位良い型でした。師匠に習った仕掛けと釣り方で、初日は15匹掛けましたが、次年の解禁日の初日は、夜明けから夕方近くまでいて75匹を掛けました。
今ではそれも夢、鵜飼川も変わってしまいました。人間の生活も大切ですが、川の改築には、是非自然との共存と調和も考えて魚道の設置を工事関係者にお願いしたいと思います。私の子供の時に覚え味わった、あの感動、感激を後世の子供達にも、残しながら、これからも釣りを楽しんで行きたいと思う今日此の頃です。
釣りの思い出
HSK(平成10年)
私の生まれ育った所は、鵜飼川の最上流である NTNです。子供の頃、そこの山野で、川で木の実を取り、魚をとり、うさぎを追い、自然の中での毎日でした。その中のアマゴ釣りの事を思い出してみたい。アマゴは「雨子」かと思う程、雨の後には、どこからとなく集まってきて、私を喜ばせてくれた。雨と一緒に空から降って来たのではないかと思う程であった。
「ばぁちゃん、釣針作るのに針ない。」と言うと。いつものように折れた針の中で、釣針を作れるものを、取っておいてくれた祖母が「又アマゴ釣りか、川水が増えているから、気をつけや」と言いながら、針を2本出してくれた。まず、釣針作りから始まる。ローソクに火をつけ、針の曲げる部分を焼く。針は直接手で持っていると手が熱いので、一切れの漬物の大根に一方を刺して大根を手に持って焼く。すぐに細い針はまっ赤に焼ける。それを好きなように曲げて、釣針を作る。それを木綿のぬい糸で縛る。竹藪で自分に合った竹を切り竿をつくる。
下を流れる川は、昨日までの雨も上がり、一度濁った川水は少しずつ澄み始め、絶好の状態である。長谷は、川が小さいので、川水が澄んでしまうと、アマゴは、釣り人の気配を感じて釣れにくくなることがある。しかし今日のにごり、水量は最高の状態である。いつもよく釣れる所まで来て、餌のミミズをつける、川の一段落差のついた下は、白い水泡がたち、すぐそばの青いねこ柳をゆすぶっている。そこから1〜2米は早い流れが続き段々とゆるい流れのよどみとなっている。
私はねこ柳に引っかからない程度に、釣針を落とす事に決める。足音をしのばせ、釣針が思った所へ落せる所まで近づく。「よし!!挑戦」深呼吸をして、息を整え、ゆれる柳の近くへ釣針を落とす。1〜2回反動をつけた釣針は思った所へうまく落込む。後は自然のままに釣り糸を流す。おもり、浮き等は使っていない。水面上の釣り糸を見失わないように見守る。「いた!」糸が流れに逆らって止まる。アマゴか?確かめる為にそっと糸を引きあげるようにして見る。とその時糸を「ググッ」と柳の枝の方へと引き込む。今だ!!柳の枝に引っ掛からないように、下流側に引き上げる。白い腹を見せてアマゴが引き上げられる。草むらの中におろし、手でおさえこむ。大きい!!
2〜3日前の雨の前までは見られなかった、大きなやつである。「やった、やったさい先がいいぞ。」私の頭の中には、今、釣れたような大きいのがまだ沢山集まって来ていそうで2匹目の挑戦に心がはやる。
結果は私の思った通りであった。1時間余りで私の持った笹に通したアマゴは、みるみるふえ、7人いる家族が3匹づつ食べられる程の数に成った。それも今遡ってきたばかりの大物ばかりであった。
私は喜んでくれる祖母の顔が早くみたくて、家へ帰るのも小走りである。田の中の、草を刈ったばかりの畦道を家へと急ぐ。定年近くになった今でも、私の頭の中にはあの日の光景は昨日の事のように思い出され手にも白い腹を見せて引き上げられてくるアマゴの釣竿に伝わる言いようのない感触が残っている。
春の小川
SHH(平成10年)
この春休み、姫路市の孫たちがきた。田舎の一日を近所の水路で遊ばせるつもりでいたが、行ってみると私がこどもの頃から親しんでいたどの水路も流れは途絶え、水溜まりにカエルの卵とカワニナが少しいるだけであった。水源は揚水ポンプで若山川と隔絶されていて水路はU字溝で生物の棲息し難い環境であることはすぐ納得できた。
3月のある夜、孫とNHKの「生き物地球紀行」を視ていた。その日は琵琶湖畔の谷内田や棚田の四季の風景であった。5月の田植えの時期には、湖から用水路をつたって、水田の水戸口から水田へとナマズが遡上し、産卵するところから始まった。ふ化した稚魚は水田で発生した大量のミジンコを餌として成長していく。用水路や水田のミジンコなどのプランクトン類・メダカ・ナマズの稚魚・オタマジャクシ・アメンボ・タイコウチ・ミズカマキリ・マツモムシ・タガメ・ゲンゴロウ・それぞれの水性生物が織りなす四季の生態系。琵琶湖には私達がこどもの頃に体験した風景がそのまま残っていた。
秋の湖西線を旅すると彼岸花の乱れ咲く風景に感激するが、春さきに草刈機で彼岸花の葉を刈りのこす心のゆとりが無かったらこの花は咲かない。土地の人々のこの心が、ナマズが遡上する為の水路や、餌となるミジンコの大量発生を促す営農姿勢につながっていると感じた。このほか最近視聴した阿賀野川の源流に取材した「イワナを育むブナ林」や、カワセミや、アカショウビンが飛び交う「四万十川」などの映像メディアに接するにつけ、珠洲の自然は劣悪で絶望に近い感がある。例えば米作の省力化や、マツタケ資源保護のためには多くの生物の生存権を視野に入れない住民の身勝手さ、それを支える行政の無神経さが人間以外の生きものが棲息しにくい環境を造ってしまっている。
豊かな海づくりでは、その背景に豊かな陸の自然環境が必須とされながら、そのための努力はほとんどされていない。水をとりまく環境改善でも、下水道整備だけでは多くの水性生物は戻って来てはくれない。人間だけが繁栄しようとするさもしい根性を捨て、自然の生態系を直視しながら、人間もそれらの生きものと共に生きる方途を考えていかねばならない。その具体的目標は「春の小川」の歌をこども等と大声で歌うことのできる珠洲の大自然の回復である。
25周年をお祝いして
HSY氏(平成11年)
珠洲清流愛護会が発足25周年をむかえられましたこと、心からお祝い申し上げます。
とかく物事「行政がやるべき」といわれがちな世想にあって、会員の皆様が率先して、清流魚の放流と河川愛護に取り組まれておられますことは、まことに意義深いことであります。会員の皆様のご努力、ご苦労に敬意を表します。
さて環境問題が注目されてから久しくなりましたが、河川へのゴミの投棄や、汚物の洗濯はほとんどなくなり、家庭における合併処理浄化槽も序々に進んでおります。
しかしながら、生活水準が向上したことにより、生活廃水が増加して、河川の水質は悪化いたしております。それに山腹崩壊による土砂流出、各種事業の進展、自然環境の変化等も起因しているのか、かつて棲息していた魚が激減、若しくは目にすることができなくなりました。
こうしたことから、会員の皆様がいち早く、清流魚の放流事業に着手されましたことは清流愛護会の名称にふさわしい、先見的な行動であると思います。
ご承知のこととは存じますが、例年石川県においてサクラマス、珠洲市においてはアユの放流事業を実施いたしております。平成11年度はさらに、ヤマメ1万尾を放流する計画をいたしております。(僧坊の滝) 環境面においては、市民の方々のご協力をいただきながら、
「河川愛護」や「美しい海岸を守る市民の日」を設定して、環境浄化に努めております。効果は遅々としているかもしれませんが、今後も継続していくことが大切であると考えております。
珠洲清流愛護会の益々のご発展と目的達成にむけた活動が、いつまでも継続されることを祈念申し上げまして、お祝いの言葉といたします。
清流愛護会の功績とサクラマスの放流
内水面水産センターASH氏(平成11年)
珠洲清流愛護会の25周年に対し心からお祝い申し上げます。
「継続は力なり」と言われますが、貴会の目的に沿って放流等の事業に長年参加されてきた会員相互のご理解、ご協力と会の運営管理の円滑化に鋭意尽力されてきた役職員のご努力に対し敬意を表する次第です。
貴会は「会員相互の親睦と清流魚類の保護育成を目指した稚魚の放流等の事業を行いながら、清流魚を愛好する会員の健康増進を図っている。」と言うことを聞いています。
紹介が遅れましたが、今回の原稿を依頼された私は、昨年4月の人事異動で初めて内水面を担当することになりました。担当はサクラマスとアユに関する調査を主にしていますが内水面関係の経験は数少ないことから、全てが勉強の昨今です。貴会と当センターの関係は、内水面での水産資源の増殖及び河川遊魚の振興面から今後とも連絡を密にしていきたいと思っています。
ところで、今回は、鵜飼川で行っているサクラマスの増殖に関する話題を記述します。県は当初、加賀ではサケ、能登ではサクラマスの増殖を目指し、各種の試験を行いました。サケについてはご存じの方も多いと思いますが、美川町の美川事業所に於て、手取川での親魚の採捕、採卵、放流の事業を行っています。
他方、サクラマスの方は、北海道から石川県までの関係道県は将来の事業化に向けて各種の試験調査を行っています。しかし、回帰匹数が少なく、サケと異なる飼育機関及び放流効果の評価が低い等の問題が話題になっています。
試験に関する内容は省略しますが、昨年の例では、鵜飼川に遡上するサクラマスの親魚採捕に関する情報を鳥毛さんから頂いています。7月7日には刺網で親魚2尾を採補することが出来ました。しかし、山中町の内水面水産センターまでは何とか搬送しましたが、採捕時の損傷から7月15日、へい死と言う残念な結果に終りました。
今年に入っての試験では3月9日から11日の3日間にサクラマス幼魚を鵜飼川に10万尾放流しました。放流魚は、卵を採取した親魚由来(遡上系と地産系区分)により1.脂鰭カット2.脂鰭+右腹鰭カット3.リボンタックの3種に分かれています。標識魚を採捕した時は当方への連絡をお願いします。なお、標識魚の採捕を報告された方には、標識魚の採捕記念品も用意しています。また、標識魚の親の由来等を詳しくお知らせします。
鵜飼川に放流したサクラマスの幼魚が日本海からオホーツク海の旅を経て再びふるさとの川に回帰する親魚の子孫が放流に最も適していると言いわれています。このことから昨年同様、今年も鵜飼川に遡上するサクラマス親魚の再補に挑み、遡上親魚からの再卵と放流を計画しています。川で親魚を見つけた時、若しくは生きたサクラマスを採捕した時は、内水面水産センターへの連絡を併せてお願いします。
心あたたまる話
事務局
25年目、今年も無事にヤマメの放流が終った。その年が終ると来年はどうなるだろうと思う。そして25年目を迎え無事に終った。あの日、あの時の思い出が脳裏を横切る。やむなく当会を去られた会員の若い当時そのままの顔や仕草が、あざやかに思い出される。 当時から現在も続いている会員の皆さんも若かった。続けることの難しさ、苦しさ、又その喜びを身をもって経験された会員たちである。その後も、今後も新しい会員の方たちが入って来られるだろうが、同じような思いで10年、20年を振り返る時があることを願っている。
その時々、来年も続けたいという気持ちを強くする出来事があって、今日まで続けて来られた様に思う。いつの頃からか、小学校の子供達にヤマメの放流を手伝ってもらう様になった。稚魚を川へ放す時の子供達の目の輝きがたまらないからである。私がこの珠洲を、こんな素晴らしい所はそうざらにないと思うのは、子供の頃遊んだ海や川、山の四季の素晴らしさを知っているからである。無垢な自然の懐が子供達の遊び場だった。自然の中でいろいろなことを学んだ様に思う。都会的文化は珠洲には似つかわしくない。珠洲が21世紀に向かって生き残る道は「そのまま素顔の珠洲」である。
さて、今年も一つ、その思いを強くした出来事があった。西部小学校の4年生の子供達に放流を手伝ってもらった時のことである。私が放流を前にヤマメの生態、一生を説明するのに対し、子供達の興味津々の眼差しが印象的だった。そして、バケツへ少しずつヤマメを入れ放す時の生き生きとした動き、終ってもしばらく川から上がってこようとはしませんでした。先生に聞くと、行くのをしぶっていた子もいたらしいのですが、これが人間の本能と云うのでしょう、自然が人間本来の本能を引き出したのだと思います。その後、先生の車に乗り切れない二人の男の子を私の車に乗せたのですが、しばらく走ると「この辺で止めて下さい」と云うのである。
「もう遅くなるから帰ろう」と言うと「道端に空きカンがたくさん落ちているから拾って帰る」とのこと、あらためて二人の男の子を見直しました。
先生の車はもう学校へもどっている頃だったが、私は意を決してその子達にビニール袋を渡し、その場へおろしました。
川の大切さ、稚魚の命の大切さ、自然の大切さを話した時の子供の目の輝き、子供達は私の説明を理解していたのです。
その後しばらくして校長先生とお会いする機会があり、「あの子供は、どうしましたか」と訪ねますと、校長先生は本当に嬉しそうに
「驚きました、二人ともビニール袋に一杯の空きカンを拾って帰ってきました。」とのこと、子供達に優しい心を呼び覚ましたのです。
ヤマメの放流を通して、こんな心あたたまる出来事があるのです。我々は、来年も放流を続けているでしょう。